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小笠式釜炒り機
現在使用している動力型小笠式釜炒り機

小笠式釜炒り機は、小笠園の創業者である小笠直一が明治後期〜昭和初期にかけて開発した釜炒り機械です。小笠園の製造過程は流動式の工場に作り替えましたが、最後の工程の仕上げだけは、200°以上に熱した小笠式釜炒り機で時間をかけながらゆっくりと火入れして仕上げています。

小笠式釜炒り機の開発に関して、五ヶ瀬町史に詳しく記載されていますので、一部抜粋して下記に記載します。

小笠式釜炒機の普及spread ogasa-style kamairi machine

(前略)荒炒りから一番炒り二番炒りと四番五番まで何十貫という茶を炒ることになると、焼けた釜の中に手を入れて茶の葉を混ぜなら炒るのであるから、指の先は水ばれになって、後にはどんなに慣れた者でも半火傷の手を釜の中に入れる苦痛は、並大抵ではなく、能率は次第に上がらなくなってくる。

加うるに生葉は遠慮なく成長して、後から摘む葉は固くなって良い茶は、とれないようになるのである

これを見て、何とかして緑茶のように機械を使って、釜炒り茶を製造する方法はないか!!人の手に代わって機械で炒り、然も多量の生葉をなるべく少ない時間と労力で仕上げる工夫はないかと考えたのが、本村釜炒り茶中興の人兼ヶ瀬の小笠直一氏である。

(中略)小笠氏はまず、孟宗竹を割って、五本の手の指を形を作り、竹をあぶって先を屈げて、人が茶を炒る時にするように、指を屈げた形に作って、針金で指の又をしばりつけ、これを樫の棒にむすびつけ、釜の上に渡し一方に手廻し式釜炒機とも言うべきものを作ったのである。

実験して見ると案の通り、初の中は仲々工合が良かったが、釜がだんだん暖まって焼けてくるにつれ、竹製の指は、もともと焼いて曲げたものであるから、曲げたところが伸びて来て、後には釜につかえて動かなくなってしまうのである。

そこで竹製では伸びる欠点があるので、これを鉄製にしようと考えたが、近所に鉄工所がある訳でないので、村の鍛冶屋に行き、終日自身で指図し乍ら、漸く二個の手の形をした物を作らせて持って帰った。

さて、これを釜に取りつけて見ると、何分にも自分の家の釜に合わせて作った訳ではないので爪が釜底につかえたり、指の間が広すぎて、茶の葉をすくわなかったり、何度も何度も鍛冶屋に通って、漸く釜に合うようになったと思うと、今度は爪の廻転につれて、茶の葉をバラバラ釜の外に、はね出すのである。

氏は更に釜の縁に竹かごをあんで、無蓋丸枠を作って見た。

今度は調子も良く、手も焼かず、能率も従来の二倍位に上り、一日七、八十貫を炒り、しかもその製品は予想以上に色沢も良好で良い茶を作ることが出来、他人の製品より高価に売却する事が出来た。

四、五年の間はこの機械も、格別人にも知られず、知る人も、不精者の物好き程度にしか考えられなかったが、小笠氏はこの小成功に満足せず、爪の数を増やして見たり減らして見たり或いは爪の長短、爪の間隔の広狭と、最新の注意を払って、試作しては実験し試作しては実験して、爪の形は一応出来たが、氏が最も苦心したのは、茶葉を釜の外にハネ出ぬようにする事であった。

最初は竹かごを縁にはめたが、後には釜を斜に据える事を考えたり、後にはブリキ板の補助枠をはめて見たりして、非常な苦心を重ねついに今日の小笠式手廻釜炒機を完成したのである。

出典:五ヶ瀬町史 第6編 第1章 四(1)小笠式釜炒機の普及